ライアーソフトから販売されている、星空めてお先生がシナリオライターをされた作品、Forestの舞台探訪をしてきましたので記録をまとめます
東京・新宿御苑へ舞台探訪にGO!
NTTドコモ代々木ビル
ビッグベンこと、ドコモタワー
雨の日に舞台探訪したため、上層が霧がかった状態になっていて、ちょっと作中背景っぽい様子になってました
ユリノキの大木
ロビン君が住んでいるという、英国式庭園にある、ユリノキの大木
パンフレットを観た限りだとこれのようなのだが、時期的に葉が落ちているのもあってか、あまり似ていない
緑が付くと背景CGのような状態になるのだろうか?
雨の日の御苑風景
人は普段より少ないものの、言の葉の庭の例の東屋には、人がたくさん雨宿りしてました
作中のような雰囲気の良い無人になる時間帯なんてあるのだろうか
Forestの世界観についての雑感
ウェアラブル・コンプの氾濫で、人混みは自分広告の集合体となった。
Forestにおいて、グッドエンディグ中に出てくる一文だ
ウェアラブル・・・身につける・・・最近、ウェアラブルカメラという新ジャンルが普及してよく聞くようになった単語だな
さらりとしか、触れられてないが、Forestの未来世界においては、自分のことを広告するのが一般的な世界観らしい
このForestという作品は、とても古い作品なのだが、この一文が、まさにスマートフォン(常に身につけるウェアラブルな端末と言っても良い)という端末を獲得し、SNSにて人との強い繋がりを常に貪欲求める
それは、自分という人間がどういった存在なのか、不特定多数の人間に広告していることに等しい
まさに、現代社会のことを指しているようで興味深い一文だ
まぁ、別にForestが販売された時代から、その雛形がなかったわけでもない
今で言う、ガラケーという端末でも、電話で話をしたり、メールをしたりという、人との繋がり持つ行為はあった
ただ、その行為がより強く加速していってるなと私は思い、Forestはそれを言い当てている
俺たちは誰かの夢だ。
俺たちの「外」に世界がある
俺たちは誰かの夢だ。
その夢を見ていやがるクソッタレは―
そうさ、やっぱり俺たちとおんなじさ!
「語り手」と「聞き手」がいる。
「読む」「踊る」「語り継ぐ」者もいる。
お気に召したかい、この夢は?
どっかで見ている誰かさんよ?
・・・これは、グッドエンディグのラスト付近にて灰流が言う台詞である
このForestというのは非常に難解で私もよく理解出来てはいないが、このタイミングでこの台詞を放つのだから、非常に皮肉の効いた作品だ
メタ的な発言で、外の世界、夢を見ている誰かというのは、言うまでもなく私達プレイヤー(読み手)だ
私達、読み手は灰流たちキャラクターが事件(リドル)に巻き込まれて右往左往する姿を読み、この作品を楽しむことになる
それは、物語の人物たちが、どんな必死だろうが、安全な立ち位置から、上からの立場で関わることになる
そんな私達に、登場人物を代表して、灰流は「そうさ、やっぱり俺たちとおんなじさ!」と言い放つ
Forestは物語に飲み込まれた世界だ、物語というのは当然、語り手がいて、語り手によって世界がつくられる
登場人物らは、そんな見えない語り手の都合に振り回される、踊ることになるのだ
私たちは、Forestという世界には読み手という高みから参加することになるが
だが、この現実世界にも見えない語り手が存在しないと何故言えようか?
私達のこの現実世界(まさに私が探訪した新宿とかね)にも、語り手がいて、何かしらのタイトル(物語)があり、その物語通りに、語り手の都合で踊らされ、その物語を高みから楽しむ聞き手がいないだなんて、証明することなんか出来ない
これは、Forestというひねくれた物語、キャラクターたちからの渾身の皮肉で嫌がらせだ
この作品らしい終わり方であり、とても痛快に思う
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